エピキュリズムとミニマリズム

 エピキュリアンを目指す私だが、同時に「ある程度」のミニマリスト(あるいは最近の分類でいうならシンプリスト)も目指している。

 エピキュリズムとミニマリズム―――相反する思想のようだが、案外そうでもないと考えている。

ミニマリズムは贅沢な哲学である

 ミニマリズムとはご存知の通り、できるだけモノを持たないようにし、究極的には必要最小限のモノだけで生活していこうとする思想だ。

 しかしそれは別に倹約の哲学ではなく、贅沢や趣味品、嗜好品を否定するものでもない。逆に極めて贅沢志向の哲学だともいえる。

 ミニマリストがモノを少なくすることで求めているのは、それによって得られる快適な空間、あるいは状態である。

 例えば高級な温泉旅館の客室。例えば広々としたホールに作品だけがポツンと飾られている美術館。

 そういった場所がとても気持ちよく感じられるのは、そこに不要なものがほとんどないからだ。余計なものがないというのは、人間にすばらしい「快」をもたらす、とても贅沢なことなのである。

 ミニマリストはそんな贅沢な空間、環境を求めて、ミニマリズムをやっている。やがてミニマリストは、傍目には質素倹約生活としかいいようのない日々を送るのだが、それはあくまで結果である。ミニマリストは、大金を使ってもなかなか手に入れられない贅沢を、モノを手放すことによって、自らの日常に実現するのだ。

 そんなミニマリストだから、本当に好きなモノであれば(本当に自分に喜びをもたらすモノであれば)、嗜好品や趣味品も所持する。ただできうる限り良きモノを厳選して所持するだろうし、その管理はしっかりと行うだろう。

ミニマルは快楽

 私もそんなミニマリズムがもたらす「快楽」を求め、いろんなものを減らした。

 ただでさえ狭い部屋の半分を占拠していたベッド(寝る時以外は何の役にも立たず、万年床で汚らしい)を処分したときには、実にすばらしい気分となった。部屋が広い、広い! うろうろ歩きまわることだってできるし、少々の運動だってできる。踊ったっていい。

 寝るときは押入れからエアリーマットレスと掛け布団を出し、床に敷いて寝ることにしたが、何の問題もない。むしろ中途半端にやわらかいベッドマットレスより快適。というか以前、本当に健康な寝方は床の間にせんべい布団を敷いて寝ることだと何かの本で読んだが、まさに本当であった。

 細かいもの、収納の奥に埋もれていたものも多く処分した。

 収納されているものなら放っておいてもいいじゃないかと思うかもしれないが、ミニマリズムの本によると、それをどこかに所持しているというだけで、たとえ表層的な記憶からは忘れてしまっていたとしても、無意識内のメモリーを消費し、知らず知らずのうちに脳に負担をかけるのだという。

 なるほど、そういう不要物を消し去ると、ずいぶんと思考が……少なくとも気分がすっきりとした。自分自身が、実に快なる「状態」となった。

 気持ちがすっきりとすると思考もポジティブになり、その結果か、運も良くなったような気がする。偶然かもしれないが、実際、モノを捨て始めてまもなく、いろんなラッキーな出来事が立て続いた。

エピキュリズムとミニマリズムの両立

 エピキュリズム的かつミニマリズム的な生活を送るにあたってのコツは極めて単純で、先程もちょっとふれたように、要は「何かを所有するなら、できうるかぎり高級で最高なものをごく少数だけ持つ」となる。

 中途半端なお値段の、大して愛着もない服を何十着も所有し、クローゼットをぱんぱんにして、それでいて(その数の多さ故に混乱し)「着る服がない」と嘆いている人は案外多い。

 そんなことになるくらいなら、高級で良質な、自分が本当に良いと思う、買って後悔しない服を1~2着だけ持てばよい。

 大したことのない価格とはいえ、何十着も買う金があるなら、高級品のひとつやふたつ買えるはずだ。むしろそのほうが安くあがるかもしれない。

 漫画のキャラクターの如く同じ服ばっかり着ているというのも悪くはない。ひょっとしたら一種のトレードマークのようなものにもなるかもしれない。

 靴も同じ。数千円~一万円くらいの靴を何足も購入するくらいなら十万円程度の高級品を一足買ったほうが満足感は得られるだろう。

 もちろん高級靴一足だけで生活していくというわけにもいかないだろうが、靴なんてフォーマルな靴をひとつ、普段用のカジュアルな靴をひとつ、必要なら運動靴や作業靴、サンダルの類をやはりそれぞれひとつずつ―――程度で十分なはずだ。

 それぞれがいい品で、そのうえで愛着を持って管理や手入れをしていれば、不満な状態にはならない。

 むしろたくさん持ちすぎて、手入れ・管理がおざなりになっているから、それらひとつひとつが色褪せ、価値が感じられなくなるのである。

 簡素・質素という言葉があり、意味もほぼにたようなもののようだが、しいていうなら、簡素は「無駄がなくシンプルであること」、質素は「簡素かつ贅沢をしないこと」、というニュアンスを含むようだ。

 となると私の方針は「質素倹約」ではなく、「簡素贅沢」とでもいうべきものとなるだろう。

ミニマリズムの“哲学”を教えてくれる本

 ところでミニマリズムを始めるにあたって障害となるのは、やはり本人のメンタル的な面となる。

 多くの人々は、明らかなゴミではないものを捨てるのに、やはり抵抗感を覚えるものなのだ。

 まだ使えるものを大切に取っておくというのは、間違い無くひとつの美徳であり哲学である。

 その考え方から脱却するには、それとはまた別の考え方―――別の美徳と哲学をしっかり学ぶ必要がある。

 そのための助けとなる本をここでご紹介したい。

より少ない生き方

 「より少ない生き方」の著者ジョシュア・ベッカー氏はアメリカ人の元牧師。

 平均的な(つまりとても豊かな)アメリカ人として、多くのモノに囲まれて生きてきたが、ふとしたことをきっかけにモノが少ないほうが快適に生きられることに気付き、その思想ミニマリズムの伝道者となった人物だ。

 とはいえ彼は妻子もあり、必要なものは無闇に削らずきちんと所有する方針をとっているので、傍目には「モノを持たない主義の人」には見えない生活を送っているらしい。

 無理のない、バランスの良いミニマリストの手本といえる。また敬虔なクリスチャンだけあり、道徳的な面からのミニマリズムの良さも語ってくれる。

 本には彼の仲間である、様々なミニマリストのストーリーが数多く掲載されている。そのすべてがいい参考、刺激となるはずだ。

ぼくたちに、もうモノは必要ない。

 「ぼくたちに、もうモノは必要ない。」は昔は汚部屋の主であった佐々木典士氏の本。

 現在では、引っ越すのに業者など使わず、自分の力だけで、引越し作業を30分で終えられるほどになったらしい。この身軽さはうらやましい。 

 本には汚部屋時代の著者の心の状態、ミニマリストを目指しモノを捨て始めた時期の心の状態、そして現在の心の状態が詳細に描かれている。

 モノを捨てる過程で、著者は母親からもらったあるモノを発見し、それを画像保存した上で処分する。そして、これまでガラクタに埋れて忘却していた大切なモノを「捨てたからこそ忘れなくなった」と書く。

 その箇所も含めた本書の内容の多くは、読者に深い感慨、そして思案のきっかけを与えるだろう。

寂しい生活

 「寂しい生活」の稲垣えみ子氏はミニマリストとは名乗っておらず、ミニマリズムという言葉も本には出てこないが、相当な「モノを持たない人」といえる。

 東日本大震災とそれによる原発事故をきっかけに節電生活を始めた著者は、やがて、真の節電を実現するには電気そのものを「ない」と思って生活していくしかないと考え、家電製品をひとつひとつ手放してゆく。

 その過程で著者が得る、様々な気付き。悟りといってもいいような哲学。

 やがて著者は、なんでもかんでも詰め込めて、そして結局使わないままの食材を腐らせてしまう自宅の巨大な冷蔵庫を、自分自身とその半生に重ね合わせる。私はその部分にいちばん共感と感慨を覚えた。

世界でもっとも貧しい大統領 ホセ・ムヒカの言葉

 ウルグアイの元大統領ホセ・ムヒカ氏も、ミニマリズムという言葉を口にしているわけではないし、ミニマリストと呼ぶのも正確ではないかもしれない。

 ただこの世界でいちばん質素、あるいは簡素な大統領(よくいわれる「世界でいちばん貧しい大統領」という呼び名は、本人にとっては不本意だそうだ)の生活は実に素朴、シンプル、庶民的であり、先進国の大量消費主義を疑問視するその哲学は世界中の多くの人に少なからぬ影響を与えている。

 一見、偉い立場なのに偉ぶらない気のいいおじいさんといった印象のムヒカ元大統領だが、むかしは社会主義の革命運動家としておそろしく苛烈な人生を生きてきた人物。

 あらゆる過酷な現実を見、そして経験してきたことに裏打ちされるその政治哲学、社会哲学、そして人生哲学は、決して甘いところのない、極めて現実主義的な理想主義といえる。

 ところでムヒカ氏は、有名な演説においてエピクロスに言及している。エピキュリズムの語源である哲学者エピクロスの教えは本来、「足るを知り、本当に必要なものだけで素朴に暮らし、精神的快楽を得よ」というものだった。

 ムヒカ氏は本当の意味でのエピキュリアンとして、その人生を楽しんでいる。

捨てるのに抵抗があるなら寄付しよう

 もしモノを手放すにおいて、どうにも捨てるのに抵抗があるというなら、寄付するという手もある。

 寄付するといっても、例えば児童養護施設などに、頼まれてもいないのに一方的に物を送りつけるのはよろしくない。送られる方も困るし「うちはゴミ処理施設じゃないぞ」という気分にもさせてしまう。

 「もったいないジャパン」という団体は、各家庭等の不用品を引き取り、それらを選別の上必要とする施設、国などに送る運動を行っている。

 もちろんなんでもかんでも引き取ってくれるわけでもないし、明らかにゴミやガラクタといった物を送りつけるのはマナー違反だろうが、案外いろんなモノを引き受けてくれる。下記のリンクから調べられるので、ご覧になって欲しい。

 また送ったなら、モノの整理に協力してもらったお礼とでも思って、多少のお金も寄付するといい(公式サイトからクレジットカードで支払える)。やはり組織の運営費だとか、物品を送る送料だとかで、現金も必要だからだ。

 リサイクルショップに持ち込んでささやかな小銭を得ても、なんだか惨めな気持ちになることも多い。「売り物にならんもの持ち込みやがって」と店員に笑われるような気がして、売りにいくこと自体が億劫になる場合もある。

 それならこういう団体にモノとお金を寄付したほうが、少なくとも精神的には、いい気分になれるのではないだろうか。